<約束>

「あにうえ…あにうえ……」

 紅玖琅が何度呼んでも決してすぐには振り返らない兄。紅黎深。

 玖琅の声はしっかり黎深の耳には届いていた。しかしそれでも黎深は歩みを止めなかった。ただ、ほんの少しだけ
その早さを緩めるだけだった。だらか玖琅にも自分の声が兄に届いているのは判った。

 玖琅は懸命に走り、黎深にどうにか追い付く事が出来た。玖琅が追いついてきたことを知っても彼の方を見ない黎
深だったが、玖琅は追い付けた嬉しさに黎深の腕に纏わりつきその顔を見上げた。喜ぶ表情を少しは期待していたの
だが黎深の表情は呆れているようにしか見えなかった。

「あ…あ、にうえ?」

「何だ」

 玖琅の言葉に応える黎深の声は不機嫌そのものだった。

「どこへいかれるのですか」

 黎深は立ち止まり追いかけてきた玖琅を見つめた。どうしてこの弟はこんなにも自分にまとわり付いてくるのだろ
うと黎深は不思議に思った。

「お前には関係がない」

 その言葉に玖琅は悲しそうな表情をした。見る見る間に涙が込み上げ、泣くのを我慢している様子が見て取れた。

「泣くな」

「は……い」

 涙を堪えながらもしっかりと返事を返す弟を見て黎深は大きくため息をついた。

・・・・・・・・・・・・・

 二人の兄邵可は黎深と玖琅を残し王都・貴陽へ行ってしまってからもう随分と時が経っていた。その間邵可からは
何の連絡もなかった。雨の日に出ていった邵可を思い、玖琅は毎日てるてる坊主を作ってる。

しかし、黎深の気持ちはそんな事では落ち着かなかった。邵可を追いかけていきたい衝動を堪え、
自分に何かとまとわりついてくる玖琅の相手をして…。何をしていても黎深の苛つきは収まらなかった。毎日を無邪気
に過ごしている玖琅を放り出して邵可のもとへ駆けつけたかった。

 何に付けても自分の思うとおりにしてきた黎深だったが、邵可から「玖琅と待っていてね」と言われたからにはそ
れを無視することは出来なかった。

例えそれが自分の意志に反することでも邵可は黎深に「待て」と言った。反論し
ようと邵可を見つめるとまっすぐに黎深を見る瞳にぶつかった。

――― 玖琅の面倒を見るのは君だよ ―――

 そう邵可の目は言っていた。それは玖琅が紅家の思惑に流されないように見ていて欲しいと言う意味だと黎深は捉
えていた。

 当主に命じられ貴陽に向かった邵可。時を経て紅家に戻ってきた邵可。どちらも大切な兄には違いないが、どこか
以前の兄とは違っていた。

 玖琅を寝かしつけながら兄のことを考えていた黎深はその理由に気が付き泣いた。『玖琅と待っていてね』と言っ
た邵可の言葉。その中には『自分は変わってしまうかもしれないけど、変わらずにいて欲しい』と、兄を慕い弟と戯
れる…そんな姿を願っていたに違いなかった。

確かに玖琅も紅家の直系であるから、いずれは裏の嫌な部分を知らずにはいられないかもしれない。それでも裏の
流れに身を任せたりしないように…例えそうせざるを得ない時期が来るのだとしても、それが出来るだけ先で有るように…。
そう思っていたのだろう。

だからわざわざ黎深に「玖琅と待っていて」と言ったのだろう。

そう言えば黎深は玖琅を守るだろうと…。

 黎深の頬を幾筋もの涙が伝っていった。側でうとうととしていた玖琅が黎深の様子に驚き、心配そうに声をかけて
きてもその瞳は玖琅を映してはいなかった。それでも玖琅は黎深の側を離れようとしなかった。

 暫くして頬を伝う涙が乾き始めた頃、ようやく黎深の瞳は顔を覗き込んでいる玖琅を捉えた。
 玖琅を見据えるその瞳に先ほどまでの悲しい色は見えず、替わりに何かを決意したようなしっかりとした光が見え
ていた。

「…玖琅」

「はい。あにうえ」

 未だ心配そうな様子を見せながらも玖琅はしっかりと返事を返した。黎深の言葉を待っていた玖琅を黎深はそっと
抱きしめた。

「れいあにうえ…かなしいのですか」

 玖琅の小さな手が黎深の背中をゆっくりとあやすように撫でた。

「そうじゃない」

 黎深が首を振りながら答えた。兄が守りたかったのは玖琅だけではないはずだ…黎深もまた邵可にとって守りたい
と思うものであったはずだった。それに気付くのが遅かった。

 邵可が願っていたようには…いつまでも無邪気なままではいられなかった。玖琅を守ることが邵可の願いだと思っ
ていたから守るためにと出来ることは何でもしようと思っていた。実際に利用する術も身につけていた。
それが邵可のの願いではないことも知らずに…。

 自分はもう後戻りできないけれど、それでもまだ大切な者は残っていた。

 これから黎深が出来ることは玖琅を守ること。それは縁者の思惑から、王から、そして紅家から…。命を守ると
言うだけではなく、心を守ると言うこと。

――― 兄上の願いは半分しか叶えられない。でも、残りの半分は何としても… ―――


 未だに玖琅は邵可が先王のもとで何をしていたかを知らない。
 そして、これからもそれを知ることはないだろう。


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